平和に飼いならされたペットの特権

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

幸せについての続編です。

我々の思考や感情は、生存が保障された環境で生み出されるものであり、それは平和に飼い慣らされたペットの特権だと思った話です。

興味のある方はどうぞ。

※異論は認めます

 

幸せ・不幸せは自分が脳内で作り出したもの。

その感情との向き合い方は色々あるけど、私は不幸(苦しみ)を味わい、そのエネルギーをブログにぶつけていくことにした。

 

その辺まで考えた時、「こんなこと長時間考えられるなんて、自分はなんて暇なんだ!そしてその暇がある自分は幸せなんじゃないか!」と思った。

これがあれか?エピクテトスが言ってた精神の自由ってやつか!?おお、資産は溶け、これまでの生活を失った私にも、こんなに素晴らしい自由があったじゃないか!

 

では、その精神の自由を持てる条件は何か。

逆に精神の自由を持てなくなる時はどういう時か。

 

例えば、いつ爆弾が落ちてくるかわからない時に「幸せとは…」と考える暇はない。考えられる人もいるかもしれないが、私はない。

生きるか、死ぬか。死と隣合わせの時、多くの人は自分の生を守るのに精一杯になるのではないか。そんな時は精神の自由はなくなる。

精神の自由は、ひとまず自分の「生」が保障されている時に持てるのだと思った。絶対的な保障じゃなくても、自分が保障されてると思えればいい。仕事が忙しくて辛くて「こんな日々が何年も続くのか」と絶望する人も、連続した生を想像できているのでこれに該当する。

 

飼い犬飼い猫と、野良犬野良猫の表情は違う。多分心も違う。

前者の表情は、生が保障された環境で生まれる。もしかしたら生存のため、あえて可愛らしい表情を作って飼い主に媚びているのかもしれないが。

 

生が保障された人間と、死を意識しながら生活する人間の表情と心は違う。どっちが良いとか悪いとかを言いたいわけではない。

飼い犬飼い猫のように、とりあえず死を意識しなくてもいい我々は、平和に飼いならされたペットと言えるかもしれない。

 

平和に飼いならされたペットは、その安全な環境下で精神の自由を発揮する。

自分の生を守るためではなく、あった出来事や社会に対してあれこれ考え、脳内で色んな感情を作り出す。ある時は喜び、ある時は悲しみ、ある時は怒りを作る。それに翻弄されながら我々は生きているのではないか。

 

精神の自由は、平和に飼いならされたペットの特権とも言える。

そう考えると、良い感情も悪い感情も、思考できる時点である意味幸せなことだと思う。

 

我々のいる「生が保障された環境」は、あたかも永遠に続くように見える。しかしそれは違う。

戦争や災害、大きな病気等により、平和から捨てられることがある。突然、我々の意思に関係なく。

今、私はギャンブル依存症の夫への怒りや子供達の心配、色々なことを考えながらコタツでぬくぬくとブログを書いている。まさしく平和に飼いならされたペットだ。

この平和な環境は普遍ではないことを肝に銘じ、今日も精神の自由を謳歌しようと思う。