年収や資産は「自分次第じゃないもの」なのか

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

少し前に読んだエピクテトスの本に「自分次第のもの」と「そうでないもの」について書いてありました。

本によると、自分の年収や資産も後者に該当するそうです。

 

「そうであってほしい」と思った反面、「自分で努力してきたなら自分次第で手に入れたものなんじゃないか?」とも思いました。夫の年収や職業を自慢する妻は明らかに他人のふんどしだけど、自分のことだしなぁ。

年収や資産は自分次第ではない。低年収で資産のない私にとっては耳障りの良い言葉です。それは真実であってほしい。しかし、これは持たざる者から持てる者への僻みなのではないかとも思いました。

 

年収や資産は自分次第ではないものなのか。

別の本を読んだ時、何となく自分の中で納得できた答えにたどり着いたので、記事にしたいと思います。

※異論は認めます

 

結論としては

「年収や資産は自分次第ではない」

です。

 

こう言った時に不快になるのは高年収の人や資産がたくさんある人だろう。

・自分の努力でここまできた

・長期的視点で成功する確率が高い道を選んできたから自分の意志のおかげだ

 

事実、そのような人はものすごい努力をしてきただろう。強い意志を持って頑張ってきたのだろう。それを否定するつもりはない。

でも、その努力や自分の意志でコントロールできる部分って、実はほーんの1部なのではないかと思った。

 

このような考えに至ったきっかけは、哲学者である中島義道さんの本「働くことがイヤな人のための本」だ。タイトルにまんまとホイホイされた。

詳しくは忘れたが、我々はたまたまこの姿でこの地に生まれて、たまたま一緒に暮らす家族がいて、たまたま出会う人達と社会を作っている、みたいなことが書いてあった。ほとんどが「たまたま」なんだということが印象に残った(本の趣旨とはずれてるかもしれない)。

たまたま裕福な家庭に生まれて、たまたま勉強ができて、たまたま病気や不慮の事故で死ぬことなく就職活動にありつけて、たまたま面接官に選ばれた人間と話をして、たまたま採用される。もちろん、採用されるために努力もするだろう。たまたま努力できる環境があり、たまたまそれなりの能力があり、たまたま優れたライバルが少なかったのも幸いした。努力しなくても、たまたま天賦の才があったり、たまたま親戚が役員だったりすることもあるだろう。そしてたまたま色々な経験を積んで、たまたま評価され、たまたま高収入になった。

きっとめちゃくちゃ頑張って得た地位や名誉なんだろう。しかし、それ以上に自分の意志ではどうにもならないことが多いことに気づくのではないだろうか。

「私は過酷な環境で自分の力でここまで来た」という人、きっといるだろう。その努力は素晴らしい。それにプラスして、たまたま努力しようと思えた環境、たまたま折れずに頑張れたバイタリティ、そしてたまたまそれに耐えられる健康な身体などなどがあったから今があるんだと思う。良かったね!

 

結果としてたまたま高年収や高資産になる人はたくさんいる。

いくつもの「たまたま」が積み重なって、その大きな土台の上で本人が努力した結果なのだ。自分次第のものは全体の0.1%とか、0.01%、もっと低いかもしれない。・・・それって全然自分次第じゃなくて、偶然に簡単に左右されるものだよなぁ。

 

そんな感じで、私は年収や資産は「自分次第ではないもの」と納得しました。

だから、年収や資産を自慢する嫌な人がいたら「この人は自分次第じゃないものを自慢している」と思うことにしますw

ミニオンとかいう可愛すぎる黄色い生き物

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

今更ながら初めて観たんですよ、「ミニオンズ」。

めちゃくちゃ可愛かった…なにあの黄色い生き物。

 

以前からキャラと名前だけは知っていました。子供のルームシューズミニオンだし。

けど、そこまで興味なかったし、スポンジボブとの違いがよく分からなかった。彼も黄色だしさ。

そんな私が動画でミニオン達を見て、完全に魅了されましたよ!!

 

人類が誕生する前から地球にいて、悪のボスに仕えることを生き甲斐にしている。

でもミニオンズが悪気なく色々やっちゃって、ボスがダメになってしまう。

ボスからしたら相当厄介だぞ。可愛いからポンコツでも憎めないし(個人の感想です。スカーレットは超憎んでたw)。

ミニオンズに絡まれたくなければ、正義に改心するのが1番良さそうだ。

 

あの言語も素晴らしい。

分からないけど、微妙に聞き取れるくらいの日本語、微妙に分かるニュアンスで笑ってしまう。ナカマー!

ミニオン語の国語辞典ほしい。

 

私は映画に感動は求めてなくて、面白さ重視なので、ミニオンズはめっちゃ好みでした。

他のシリーズも観たい!

 

おかげさまでミニオンスポンジボブの違いが分かるようになりました。

どうせならスポンジボブも観てみたいな。てかスポンジボブって映画なの?あとスポンジボブってミニオンみたいにいっぱいいるの?←初心者すぎ

ラジオ体操ダイエット

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

更新が滞ってしまいました。

「良い記事を書こう!」と思うとハードル上がって書けなくなります。

ここは私の記憶置き場なので、もっと気軽に書き込みたいと思います。

 

実家に戻ってきてからめっちゃ太ってしまいました。

で、昨年末からラジオ体操ダイエットをしているわけですが、ようやく成果が現れた気がします。

体重は1キロくらいしか減ってないけど、明らかに引き締まった!

 

ラジオ体操第1第2第3を1日2セット(20分弱)やってます。

第3は知名度低いですよね。覚えれば簡単です。

 

身体は引き締まったけど顔が痩せなかったので、最近顔のリンパマッサージも始めました。

あい先生の動画を見ています。

変わるかなー。

 

少し前までは哲学や宗教の本を読んでいましたが、そのブームは去り、気持ちが外に向かうようになってきました。

天中殺&厄年終わったからかな(ちなみにまだ月の天中殺中である)!

とりあえず仕事探します。

「◯◯できなかったらバカにされる」と言う人

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

突然ですが、私は父が嫌いです。子どもの頃から性格が合いませんでした。

お互い歳をとって丸くなったのか、今のところ大きな喧嘩をしないで同居できています。それでもしょっちゅうムカついてます。

 

父が孫(私の子)に「◯◯できないと周囲からバカにされる」と言うのが嫌いです。

 

例えば

この年齢なら自転車に乗れないと〜

逆上がりができないと〜 

九九を言えないと〜

などです。

 

そういう発言をする人は

・バカにした経験がある(もしくはバカにされた経験がある)

・バカにされることを非常に恐れている(周囲の評価を気にする)

という特徴があると思っています。

※異論は認めます

 

そもそも、バカにされる・されないという言葉は、普段から人をバカにしている・されている人からしか出てこない。

父は昔、ジャイアンスネ夫のように、のび太的な友達をいじめてきたのだろうか。それとも、ジャイアンスネ夫にいじめられてきたのだろうか。

 

確かに昔はそういう風潮があったのかもしれない。

色々な価値観の決めつけが多かったと思う。男だからしっかりしなさい、女の子はピンクが好き、こういう子は良い子でこういう子は悪い子…。

でも、今は割と個人主義というか、価値観の多様性が認められてきた。給食は無理に全部食べなくて良い、ランドセルの色は男女ともに何色でも良い、この子はこういう性格で、あの子はこういう性格で…。

のび太はあやとりや射撃が得意だ。アニメの中では「男があやとりかよ!」といじめられるけど、現代ならそれなりに友達に尊重してもらえると思う。現代ののび太的な子は結構生きやすくなっている気がする。

 

また、「◯◯できないとバカにされる」と言われて育った子は、◯◯ができない人をバカにするようになる。親からバカにしても良いと教わっているからだ。

そうやって育てられ、人をバカにするようになった子が私だ。今は改心したが、当時の私は色々拗らせていた。バカにされまいと頑張り続け、バカにされるのを何よりも恐れていた。自己肯定感はずっと低かった(この話はまた別の機会に書くかもしれない)。

私の元々の性格など、他の原因もあるかもしれないが、「◯◯できないとバカにされる」という呪いは結構強かったと思う。

私のような子に育てたければ、同じように育てるといい。あまりおすすめはしない。

 

だから私は息子に「◯◯できないとバカにされる」と言わない。お友達ができて息子ができないことがあっても「そうなんだ〜」で終わりだ。

例えば、クラスの半数が逆上がりができて、息子はできない。息子は良くも悪くもマイペースで全然気にしない。もし、息子が「できるようになりたい!」と強く望むのであれば頑張ればいいし、別に…ならそのままでいいと思う。

下の子は3歳後半だがオムツがはずれる気配がない。スキビディトイレが怖いらしく、トイレに近づこうともしない。私は彼がはずしたいときにパンツにすればいいと思っている。小学校にオムツで行ってもいいと思っている。

これが正解なのかは分からないが、我が家はこう育てている。なるようになるさ。

 

この前、食べるのが遅い息子に父は「給食を時間内に食べられないと小学校で友達にバカにされる」と言った。

確かに遅いよ。でもその言い方が嫌いだ。真っ向から批判すると逆ギレするのは分かっているので「今はそうでもないと思うけどね〜、個人主義だからね〜」と私はやんわり言った。

「でも時間内に食べられないとダメだろ。協調性大事だろ」と返ってきた。

うん、協調性大事だよ。でもバカにされるかどうかは別だ。これで私を論破した気になっているのか。いつもこうだ。だから嫌いだ。

私は無視した。会話は終了。平和的解決☆

 

愚痴っぽい話になってしまいました。

終わりです。

平和に飼いならされたペットの特権

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

幸せについての続編です。

我々の思考や感情は、生存が保障された環境で生み出されるものであり、それは平和に飼い慣らされたペットの特権だと思った話です。

興味のある方はどうぞ。

※異論は認めます

 

幸せ・不幸せは自分が脳内で作り出したもの。

その感情との向き合い方は色々あるけど、私は不幸(苦しみ)を味わい、そのエネルギーをブログにぶつけていくことにした。

 

その辺まで考えた時、「こんなこと長時間考えられるなんて、自分はなんて暇なんだ!そしてその暇がある自分は幸せなんじゃないか!」と思った。

これがあれか?エピクテトスが言ってた精神の自由ってやつか!?おお、資産は溶け、これまでの生活を失った私にも、こんなに素晴らしい自由があったじゃないか!

 

では、その精神の自由を持てる条件は何か。

逆に精神の自由を持てなくなる時はどういう時か。

 

例えば、いつ爆弾が落ちてくるかわからない時に「幸せとは…」と考える暇はない。考えられる人もいるかもしれないが、私はない。

生きるか、死ぬか。死と隣合わせの時、多くの人は自分の生を守るのに精一杯になるのではないか。そんな時は精神の自由はなくなる。

精神の自由は、ひとまず自分の「生」が保障されている時に持てるのだと思った。絶対的な保障じゃなくても、自分が保障されてると思えればいい。仕事が忙しくて辛くて「こんな日々が何年も続くのか」と絶望する人も、連続した生を想像できているのでこれに該当する。

 

飼い犬飼い猫と、野良犬野良猫の表情は違う。多分心も違う。

前者の表情は、生が保障された環境で生まれる。もしかしたら生存のため、あえて可愛らしい表情を作って飼い主に媚びているのかもしれないが。

 

生が保障された人間と、死を意識しながら生活する人間の表情と心は違う。どっちが良いとか悪いとかを言いたいわけではない。

飼い犬飼い猫のように、とりあえず死を意識しなくてもいい我々は、平和に飼いならされたペットと言えるかもしれない。

 

平和に飼いならされたペットは、その安全な環境下で精神の自由を発揮する。

自分の生を守るためではなく、あった出来事や社会に対してあれこれ考え、脳内で色んな感情を作り出す。ある時は喜び、ある時は悲しみ、ある時は怒りを作る。それに翻弄されながら我々は生きているのではないか。

 

精神の自由は、平和に飼いならされたペットの特権とも言える。

そう考えると、良い感情も悪い感情も、思考できる時点である意味幸せなことだと思う。

 

我々のいる「生が保障された環境」は、あたかも永遠に続くように見える。しかしそれは違う。

戦争や災害、大きな病気等により、平和から捨てられることがある。突然、我々の意思に関係なく。

今、私はギャンブル依存症の夫への怒りや子供達の心配、色々なことを考えながらコタツでぬくぬくとブログを書いている。まさしく平和に飼いならされたペットだ。

この平和な環境は普遍ではないことを肝に銘じ、今日も精神の自由を謳歌しようと思う。

 

 

 

 

 

不幸(苦しみ)との向き合い方

こんにちは。マサコカネヒラです。

幸せについての続編です。

 

幸せ・不幸せは脳内で作り出したもの。

じゃあ我々は脳内で作り出したものとどう付き合えばいいの?と思い考えました。

結論は【どう付き合ってもいい!私は幸も不幸も思いっきり満喫する!】です。

・・・はぁ??と思った方は、ぜひ記事をご覧ください。

※異論は認めます

 

幸せな時はまあいい。きっと嬉しい、楽しいと感じる状況なんだろう。

問題は不幸を感じる時だ。辛い、嫌だ、苦しい、つまらない。快とは反対の状況なのだろう。

なのでこの不幸(苦しみ)をどうするかについて主に考えた。

 

苦しいと感じた時、その状況は簡単に変えられない時。例えば奴隷として働いてて逃げられない、とか。その時人間はどう考えるのか。

何となく選択肢を考えてみた。

 

▶救済を信じる

苦しみを耐えた後には幸運が待っている。だから今は辛いけど頑張ろう。

宗教はこういう面があると思う。良い行いをしたら神が救ってくれる。最後の審判で天国に行ける。だからキリスト教イスラム教は世界に広まったんだろうな。

 

▶自己の内面を変える

神の救いはない。逃げられない。外部環境は変えられない。ならば自分の受け取り方を変えてみようか。

心を無にして嫌な仕事に取り組むとか、嫌なことの中にほんの少しでも好きな部分を見つけるとか。外部環境は不自由だけど、心の中の自由に気づいて、色んな妄想を膨らませることもできる。

 

外部環境に対する認識を変えるという意味では、ニーチェ的な思想も当てはまると思った。「神は死んだ」のニーチェね。

彼は、この世界のものは全て意味がないと考える。自分自身もそうだし、自分を不幸にした物や出来事も、何もかも。人生のゴールも、神の救いも無くて、同じ人生を何度も何度も繰り返す。嫌すぎて発狂しそうなこの世界で、じゃあどうやって良く生きたらいいの?と考えまくったニーチェ。この答えは…私の解釈では「今この瞬間」「自分」にめちゃくちゃ集中すること、だと思う…!今、呼吸してる自分、辛いと思ってる自分、この世界に立っている自分、ほら、生きてるじゃないか、みたいな感じ?ニーチェの本難しくてちゃんと解読できてないと思う。誰か詳しい人教えて(土下座)

 

▶苦しさを思いっきり味わう

脳内で作り出した苦しみから目を逸らさない。今私は苦しい、苦しいんだーー!!!

ただ辛い苦しいと愚痴をこぼすのもいい。泣きまくってもいい。時間が経てばすっきりするかもしれない。

この苦しみのエネルギーを何かにぶつけるのもいい。怒りや苦しみから生まれた芸術作品はたくさんある。きっとそういう作品って人の心を動かすんだろうね。

逆に、幸せな時も存分に浸ればいい。超超幸せオーラが溢れた作品もたくさんあるよね。

 

多分、不幸を感じた時の対処法的なものは他にも色々ある。

どれが1番良いとかは無い。

自分が納得して生きられればいい。

 

ふと、私は不幸だと感じた時どうするのか考えた。

 

少し前にギャンブル依存症の夫と別居した。人並みに辛いと感じた。

最初は「私が頑張れば状況は改善できるはず」「いつかは報われる」と思って結婚生活を続けた。でも、報われず。祈りが足りなかったか。

次に哲学や宗教の本をたくさん読み、この状況に対する私の解釈を変えようと試みた。面白くて勉強になったが、苦しみは変わらなかった。

そして今、この苦しみをネタにしてブログを書いている。苦しみを思いっきり味わって、そのエネルギーで文章を書いている。最高に楽しいww

 

長くなってしまいました。

次の記事は、「こんなことぐるぐる考える余裕があるなんて、ある意味幸せだよな」と思った話です。

興味のある方はお楽しみに。

 

幸せの定義

こんにちは。マサコカネヒラです。

 

【幸せ】

幸せにする

幸せになりたい

幸せそう・不幸そう…

幸せって会話とかで多々使うけど、そういえば幸せってどういう状態なんだ?と考えました。

 

考えた結果、

●幸・不幸は脳内で作り出したものである

●そんなこと考える余裕がある私はある意味幸せだ

●幸・不幸を味わうのも悪くない

という結論に至りました。

 

何記事かに分けて、そのことについて書きたいと思います。

本記事では幸せの定義について述べたいと思います。

※異論は認めます

 

よくテレビで芸能人のこれまでの人生の幸せグラフ的なやつを見る。

ブレイク時に急上昇して、仕事がなくなってどん底。そして今はまあまあ。みたいな折れ線グラフ。

みんな思い思いに山あり谷ありのグラフを描く。

では、グラフがどうなった時に幸せを感じるのか。

 

→幸せを感じる基準は人それぞれだ。

y軸の値の絶対値で判断する人、線の傾きが大きければよい人、総面積で判断する人、他人のグラフを想像で作り上げて自分のと比較して判断する人もいるかもしれない。

そこに正解はなく、個人の感受性によって様々なんだと思う。

 

幸せ・不幸せ とは

ある物事に対して、その人が認知して脳内で下した感想が「快(幸せ)」か「不快(不幸せ)」かどうかである。

物事それ自体はただ存在しているだけ。それを人間が脳内で好き勝手に判断しているのだ。で、その判断基準は人によって違う。

 

受験に合格した。子供が産まれた。事業が成功した。

一見、100%の人が幸せを感じそうな出来事だ。

しかし、物事自体に色はついていなくて、ただ結果としてそうなっただけ。良い面も悪い面もある。

もちろんそれは100%の人が不幸に感じそうな出来事についても同じことが言える。

 

まとめると

幸・不幸は個人が脳内で生み出したもので、幸せを感じる基準は人それぞれ違う。

全ての出来事はただ存在してるだけで、人間がそれぞれ勝手に良いとか悪いとか判断している。

つまり・・・幸せは自分の心が決める。なんか偉そうに始めたのにありきたりな結論になってしまった!

 

でも、それが分かったところで我々はどう生きればいいの?

いくら不幸が脳内で作った感情だと思ってても、辛いもんは辛いんじゃ!

次の記事ではその辺のことを書きたいと思います。